ほんとうの夢


「本当の夢は神にも言わない」そういうもんだと思う。
 「本当ではない夢」を神に願い、「本当ではない夢」が「本当の夢」を叶えることを願っているのだ。
これを弁えと言うのだらうな。


これができるから日本人は簡単には他の宗教に染まらないが、


これにつけ入ってくるカルトもある。
  
 「幸せ」のため謙虚友愛を説いて、結果「事業隆盛」「家庭円満」を約束するような宗教はそういうもんだ。
  
そりゃマトモなことを言ってるんだけどさ、劇団(笑)みたいに強烈な仲間依存症という強烈不治の大病を患わされる。
そして、世は貧乏人から絞るそーかタイプから、マジメに働くバカを育ててそいつに稼がせて寄付させる「実現」タイプが主流になってる。
  
みんな気をつけようね。幸福なんて「そもそもどこにもない
」もんだからね。
 後を継ぐ 嫁子との不和 事業不振 
  そういうことはもそもそ思うようにならないことじゃ。
だから当たり前に思って、本当に思うようにならない自分の成長や上達に気を向けるのがいいと思う。これこそ幸せだろう(笑)。普遍的に広がる幸せそのものじゃないのか?
 
まあ、どうでもいいけど。
 


古典詩と古語


 


呉茂一氏の訳本がなければニッチもサッチもいかないところで卒論書いたし、趣味のお勉強も全て、そう、古代ギリシャ一辺倒でした。  
当時は古文の知識も慣れも全くゼロ(受験はどうした?)。だから、古語で訳された文章、特に詩文には往生した、で、今読むと訳詩という感じが全くしない。  
そう、訳詩というと、フランス詩の訳はムゴイねえ。つかフランス語はできないけど訳された詩がちっともオモロクナイ。そんなイライラするような感覚が呉茂一の訳には全く無いんだよな。古文の なり けり て ぬ のみ よ を は そういう活用語尾や修辞尾語が韻を踏んでたりする。原作の韻とは違うんだろうけど、呉氏に訳された日本の古語でそれなりに韻を踏んだ詩になる。  


やっぱねえ。 古語はいいよ。できれば漢文はもっといい。 目下漢文特訓中。
 
それはそうと、朔太郎でさえ漢文のお勉強は辛くて大変だったらしい。それでもやったのは詩を志すには必要と思ったから。そしてそれは意外にもヨーロッパの影響だと思う。
ヨーロッパで詩人になるというのは大変で、古典の作品や古典の修辞法をきちんと習って先ずは古典詩をマスターしてから、それを崩して築いて今の我が詩を作るという技術がなければ詩人と見なされることはないからね。

「信」と「知」


思想の展開というのは、実は当の書き手でさえよくわかってない。
でも前提と結論だけは「信」の処に在るにはある。
つまり展開とは「信」を「知」に成すべく展開され得る可能性を叙することなんだろうな。
  
なに?
じゃ、展開って後付けだからあんまし意味ない?んなことはない。
 書きたい欲求は、書きながら考えることじゃ。
もちろんプッツンして途中止めになることもあるけど、それこそ本人には大いに意味があること。
 僕らは出来上がったようなものに接するしかない。
 仕方なかろ。
  
 例えば。


「神の存在」


これ


「神は在る」
 だから
「世界は調和する」
  
これは「信」だ。
  
だから。だから になるものでカッコよく気持ちよくつないでこそ「信」が溶けて胸に沁みる。そうなって初めて「知」になって思考の素になってゆく。
  
こういうことは哲学も小説文学もあんまし変わらない。