古典詩と古語


 


呉茂一氏の訳本がなければニッチもサッチもいかないところで卒論書いたし、趣味のお勉強も全て、そう、古代ギリシャ一辺倒でした。  
当時は古文の知識も慣れも全くゼロ(受験はどうした?)。だから、古語で訳された文章、特に詩文には往生した、で、今読むと訳詩という感じが全くしない。  
そう、訳詩というと、フランス詩の訳はムゴイねえ。つかフランス語はできないけど訳された詩がちっともオモロクナイ。そんなイライラするような感覚が呉茂一の訳には全く無いんだよな。古文の なり けり て ぬ のみ よ を は そういう活用語尾や修辞尾語が韻を踏んでたりする。原作の韻とは違うんだろうけど、呉氏に訳された日本の古語でそれなりに韻を踏んだ詩になる。  


やっぱねえ。 古語はいいよ。できれば漢文はもっといい。 目下漢文特訓中。
 
それはそうと、朔太郎でさえ漢文のお勉強は辛くて大変だったらしい。それでもやったのは詩を志すには必要と思ったから。そしてそれは意外にもヨーロッパの影響だと思う。
ヨーロッパで詩人になるというのは大変で、古典の作品や古典の修辞法をきちんと習って先ずは古典詩をマスターしてから、それを崩して築いて今の我が詩を作るという技術がなければ詩人と見なされることはないからね。